天武天皇の子どもたち~草壁皇子~

草壁皇子は天武と鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の間に生まれました。
幼い頃から病弱だった草壁皇子は、母親の溺愛のもと育ちました。

鸕野讃良皇女は天武の后の中で一番高い地位にいました。
それは大伯皇女と大津皇子の項でも述べましたが、一緒に嫁いできた姉・大田皇女が亡くなったことによることが大きいと思います。

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671年10月、天智天皇の皇太子だった天武(当時は大海人皇子)は突然出家します。
そして、近江大津京を離れて吉野に下ります。
これは天智天皇が実子である大友皇子を後継にしたいが為、天武暗殺を企てていたのを察知したからです。
この吉野行きには鸕野讃良皇女と草壁皇子も一緒でした。

その後すぐ壬申の乱が起こり、天武の治世が始まります。
皇后は鸕野讃良皇女。
草壁皇子は皇太子になりました。
ただ、大津皇子高市皇子の活躍は文献に残っているものの、草壁皇子の活躍はほとんどありません。
病弱だったことが影響していたのでしょう。

草壁皇子がどんな人物だったかというと、母・鸕野讃良皇女の息子LOVEな強烈な威光が眩しすぎて、よく分からないというのが正直な印象です。
私が思うに、様々な葛藤を抱えていた人物だったのではないでしょうか。
自分の意思で頑張りたい。→母親に邪魔される。
政治だって頑張りたい。→病弱で上手くいかない。
恋愛だって頑張りたい。→大津皇子に彼女を奪われる。

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天武天皇が崩御してから3年後、草壁皇子は即位せずに28歳で亡くなります。
即位しなかったのは大津皇子謀反事件の余波とでも言うべきもがあったのでしょう。
草壁皇子はまた葛藤したはずです。
時には嫉妬し、時には羨望した大津皇子があっという間に亡くなった。
その裏には自分に対する強烈な母の愛があったという事実に。

柿本人麻呂は鸕野讃良皇女の求めに応じて草壁皇子の挽歌を詠っています。
天地開闢からの神々の話を交えながら、草壁皇子を讃え嘆く長歌。
(紹介するには長すぎるので省略します。ごめんなさい)
鸕野讃良皇女の悔しさを汲み取ったのでしょう。

その後、鸕野讃良皇女はみずから即位し持統天皇となります。
草壁皇子の遺児・軽皇子を即位させるために。


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